Jamais vu

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自分を殺したい。そう思っていた自分が鬱状態から脱した方法。

      2016/10/30

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自分を殺したい。ぼくは高校に入ってから漠然とそう思い続けて生きていた。強烈にそう思う日もあれば、その気持ちが薄まる日もあった。どんなときでもクーラーボックスから溢れ出る冷気のようにモヤモヤとした感じが頭と身体を覆っていた。

その鬱々とした感じを脱するきっかけとなった本と、脱していった方法について書きます。

中学から大学

ぼくは中学生のときに「なんで生きてるんだろう」と思いついた。いま振り返ると、その疑問が漠然とした憂鬱のはじまりだったのではないかと思う。その疑問は下校中に突然降ってきた。

なぜそんな疑問が落ちてきたのか。わからない。特に深刻な悩みがあったわけでもなかった。寄生虫が住みつくようにその疑問はぼくの脳に取りついた。

高校生になってからもずっとその疑問はあった。「生きている意味ってなんなのか」「生きている意味はない」。失恋なんかがあるとその疑問が大きくなったり、なにかの拍子に小さくなったりすることもあったけれど、結局はいつもその疑問が頭のどこかにあった。

高校3年生になって顎関節の手術を受ける。手術ミスでぼくは顔面神経麻痺になった。それは疑問を急速に巨大化した。表面上は元気にふるまうことができたけれど、大学生活は鬱々としたまま終わった。

はじまりの本

小さな会社に入ってからしばらくして、本屋で一冊の本に出会った。

『腰痛は<怒り>である』という本だ。

今思えば、この本が今までとは違う道に踏み込む一歩目だったような気がする。おおまかに言うと、この本には「身体の痛みは心からやってくる」ということが書かれていた。

ぼくはその考え方に新しいなにかピンとくるものを感じた。自分は心が鬱々としていた上に腰痛を持っていて、その心と身体をどうにかする方法を考えつづけていた。道が開くような感覚をその本に感じたのを覚えている。

ワークショップとの出会い

それからしばらくして、twitterを眺めているとあるワークショップの告知が目に入った。誰かがリツイートしてくれたのだ。カウンセリングワークショップ。人とどう話すかを考えるなかで、自分を知っていくような講座であることがわかった。そこには「身体を動かします」と書いてあった。

それまでぼくはそんなものに参加するような人間ではなかった。そんな社交性の必要とされる場に顔を出したことなどなかったのだ。でもなぜかそれには自然と身体が動いていた。

「身体を動かす」という言葉と「カウンセリング」という言葉が、自分に心と身体について教えてくれる可能性を感じさせたのかもしれない。とにかくぼくはこのワークショップに参加した。

この講座がきっかけで、カウンセリングと身体のことに興味を持つようになる。この方向に進めば、「なぜ生きるのか」という疑問に近づける、鬱々とした気持ちが解消される、と感じたのだろう。

それは正しかった。

自分で自分を治療する

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ここから先は、自分の鬱症状を自分で治療していく作業だった。今もそれをしつづけている。死ぬまでやることになるだろう。

カウンセリングを受ける。整体を受ける。ボディワークを受ける。というのではなく、最初からカウンセリングを学び、整体を学ぶ方に向かったのは、意図したことではなかった。でも結果的にそれが最善だったと思う。

カウンセリングという考え方、整体という考え方のなかに、人の生き方や考え方についての知見が詰まっていた。

カウンセリングを学ぶ

カウンセリングの考え方は「いかに自分が目を逸らしている自分の側面に目を向けるか」について教えてくれる。

カウンセリングを学ぶ中で、自然と自分自身について見直さざるを得ない。あのひとのこういうところが嫌だ。こういうところが治ればいいのに。と考えていた自分の考えが、そういうところって自分にもあんじゃないの。と思えるようになっていった。

考え方が変わっていく中で、視界も広がるような感じがあった。視界が狭いからこそ、極端な考え方に走っていたのだ。カウンセリングを学ぶようになってから「なぜ生きるのか」を考えても、「『なぜ』と考えること自体に問題があるのではないか?」と考えるようになった。論理的にその質問に答えようとすることが正解なのか?論理って万能なのか?というように。

カウンセリングは、自分や他者について細やかに見ることも教えてくれる。特に『心理療法家の言葉の技術』は繊細に感じる感覚を味わわせてくれる本だ。

整体を学ぶ

整体やボディワークを受け、自分で学んでいくなかで、どんどん自分の身体が楽になっていった。

自分が「なぜ生きるのか」「自分を殺したい」と考えてしまうのは、自分の身体の状態のせいなのではないか、そう思うように変化していった。

『腰痛は怒りである』に人の心が身体をつくると書いてあった。整体やボディワークはそれを反対方向に行うことができる。身体の可能性が開くと、こころも広がるのだ。

こころの変化を感じながら、身体を自分で改善していく過程で、ぼくは頭でばかり考える以外の日々の過ごし方を知り、楽になった。

「なぜ生きるのか」そう言葉や論理だけで考えていた自分の世界の狭さを知り、感覚を繊細にしていくなかでそれは見つかっていくのかもしれないと思うようになった。

何度も読み返し、実践しようと試みている本がある。『究極の身体』という本だ。スポーツや楽器の技術を高めたい人にも、身体の不調を改善していきたい人にもおすすめです。

道をそれる

「なぜ生きるのか」「自分を殺したい」ぼくは長い間そう考えていた。ふとした瞬間になにかと出会ったことで、それは解消される方向にむかうことになった。

そのふとした瞬間のつかみ方をぼくは教えることはできない。それはたぶん誰にも教えられないだろう。

ただ、人は自分の求めるものを観てしまうようにできている。だから情報に触れておくことが可能性を広げてくれるとは思う。twitterでもいい、はてなブックマークでもいい、それがどんなに偏っていてもいいのではないか。もし行けるのなら、本屋に行くとピンとくる情報が飛び込んできやすいかもしれない。

もしピンときても、なかなか手は出しずらいし、ましてや参加なんてもっとしずらいと思う。

昔の自分に「ピンときたら行動すべきだ」「行動すべし」と簡単に言うことはできない。ただ、身の回りにあるなにか些細なものが、自分をいまの道筋とは違う方向に連れていってくれることもある、とはもしかしたら伝えられるかもしれない。